有隣協会の歴史



歴史(1982年発行・法人パンフレットより)

①昭和25年(財団法人厚生会)創立時代の表玄関口であり、樹木の右側は洗濯物とWCの一部が見られる。その陰は⑧の全面図をごらん下さい。住民から"ポッポの家"と呼ばれていたように、国鉄の客車をそのまま住宅にしておりました。三代理事長(昭和28年寮長時代)からこの中の一棟に家族ともども生活し、寮員の指導に当った。―或る映画会社の刑事物シリーズで、この辺に犯人が潜伏しているとの仮定で撮影に来られたことがあるのも、懐かしい想い出の一つである。


②は昭和34年8月新築以来今日に至り、再三の内部改造をし現在に至る。近いうちに鉄骨改築する予定である。48年から山谷労務者の宿泊所として運営している。地域施設(民有民営)では都下唯一のものとして誇っている。


③は門から見えるのは食堂であり、その直ぐ向かいに事務所があった。―しかしこれ等は更生施設建設のため49年に取壊しの運命にあった。いまはこの写真で偲ぶばかりである。


④大井甲寮(東京都大田区東海5丁目)―臨時宿泊施設として毎年越冬期間(12月~2月)山谷労務者が入所する。それより以前に江東区塩浜寮(約200名入所)51年12月から本会が契約を続けているが、塩浜寮は既に古い建物として取壊し、現在の潮見寮が新築され、引き続き毎年管理に当たっている。年々入所者数、入所期間は短いが、それだけに運営の困難、入所者相談業務非常に苦労が多い。本会は福祉の源点こそそこに在るのではないかとの理念に燃え、微力ながら今日まで幸い事故もなく継続の責務に応えている。―西側より撮る。


⑤潮見寮は山谷対策の越年越冬対策の一環として、生活保護法による保護施設として53年10月5日に竣工され、運営は本会が行っている。 ―軽量鉄骨平屋建3棟、延1,470.01㎡ ―12月から翌年3月末日まで ―入所定員は176名 ―福祉事務所、医療機関等の協力を得ながら在寮者の病状を把握し、治療に専念させ体力の回復を図るよう指導している。



歴代理事長

初代理事長/ 春日井 秀雄

 春日井秀雄について=本会の創立者であり、東京市時代から市議に選出され、都議会幹事長、議長等の要職を歴任し、現在は高齢のため都議会から離れ、人生の余波を豊島学院の女子高教育に専念されている。昭和25年頃から財団法人厚生会を設け、その代表者として、昭和26年社会福祉法が制定されるや、それまで行っておりました社会事業財源の一切を、昭和27年2月に新たに設立発足をみました本会に対し寄付され、先生は初代の理事長に推された。学者肌で非常に見識も深く、かつ穏健な人柄だったところから、各方面の人望が高かった。


二代目理事長/ 大森 玉木

 大森玉木について=石川県出身の国会議員であり、自民党員として政務次官等の要職を経て、将来は大臣クラスの声もあったが、惜しくも(昭和39年2月19日)講演会で倒れ死去された。 春日井理事辞任のあと、一応金田理事が推されたが、未だ若年のため、敢えて金田理事とも関係のあった大森玉水を二代理事長に推薦されたのである(29年~31年間)。 この間国会議員の多忙さから、その代行はほとんど専務理事の金田が運営を担っていた。こうした社会福祉事業に対しては、余りにも人物が大きすぎたこともあって、めったに理事長が指示する要務もない時代であった。


三代目理事長/ 金田 一住

 金田一住について=28年から春日井元理事長に仕え、寮長から理事、そして理事長は30代だった。元来満州帰りの熱血感だったから、まさしく社会福祉にはうってつけで、あまた問題の多い施設運営の中で自由奔放に実力を発揮できたのである。ポッポの家改革以来、事務所、第一春風寮、第二春風寮、それにアパートまで一年おきに矢継早に建設したものである。そのため、事情を知らない近くの住民は眼を見張った。都・関係方面を相手にしては民友民営の施設など何時できることか、知人友人を訪ね北海道まで行き、金策に走り回った揚句、意ならず不利とは承知し乍ら銀行よりの融資を仰いだまではよかったものの、その返済には人知れぬ辛酸を経験した。しかしそうした努力が基盤となってこそ、今日があるのではないか、忍と忍の生活こそ福祉に対応する役員の役員たるところであろう。 現在は小又常務のよき補佐役を得、役職員の和の元に将来にますます明るい見通しがようやく実りつつあることに感謝している。東社協始め全社協、都知事等より感謝状、記念品、表彰状等を受けた。近くは全宿連の機関誌発刊に当り委員長として活躍を期待されている。理事長に選出されたのは(昭和31年9月)であり、三代理事長として今日(昭和58年)にいたっている。


 昭和48年更生施設(都下民間施設としては戦後白羽の矢がたったいのいち番)建設のため一瞬にしてブルトーザーの餌食のように取り壊されてしまった。事務所であり管理人住宅であった(写真手前の建物)とそのすぐ向う隣りが第一春風寮で現在も使用。この門、塀もその時同じに消えてしまった。門前に立っているのが現理事長。 数日後に工事が始められるので如何にも複雑な想いで腕組している。懐かしくも哀しい面影はある。



役員構成

 本会の定款に基づき顧問、参与等についても委嘱できることになっているが、現在ではそれほど必要ある施設機構でもないので、特に役割としての中にはありません。 定款規定として、理事6名、このうちより理事長1名が代表となる。常務理事1名を選出している。監事は二名。二年満期として改選を行っているけれど(9月19日)なかなか役員としての人材に適した人柄となると、大変頭の痛くなる問題でこれまでにも数え上げると限りがない。円滑に本会の運営に協力していただく半面、役員の報酬となると一般企業社会等の役員とは異なって、無報酬に近いからであろうか、この辺にも聊か抗低せざるを得ないものを感じている点である。有名人を推しても快諾されないし、若し快諾されたとしも、返って引き廻されることが往々にして問題、紛争を見ることが多い。結局内部に波紋を起さないような穏健策に乗って役員を選ぶことに落付いてしまうのが現状である。しかし本会ではいままで余りそうした葛藤が無かったことは幸いである。 永年再選されている役員によって構成されているからであろうと誇りをもっている。現在(昭和57年9月19日)満期改選によっての役員は次の通りである。理事長=金田一住、常務理事=小又平明、理事=山田猛司、金田八千代、城光寺崇夫、戸部新十郎、監事=佐々木満雄、山口俊叙、参与=山下静平。役員会は年に3回開催(3月、5月、10月)としている。臨時役員会は理事会の指示によって開催されることもある。


職員は

 職員は―昭和57年度現在は次の通りである。通常の宿泊職員は4名、委託の宿提職員は3名。計7名で執務。この外本部付2名が勤務しているこの内、昨年度から1名を約六ヶ月の(主事研修会)に参加するようにして、大いに専門職の質向上を図っている。また年に1週間の休暇休養を与え、春は職員同志の慰安旅行を行っている。山谷労務者を対象としているので、24時体制をモットーに、日中は巡回監視から夜間の施設巡回ときめ細かく配慮している。なお毎年の越冬臨時施設の主な職員(熟練を要するので)合せて、本部の方で勤務している。第二種施設なので、その上本会は民有民営と云う立場から、他の施設とは総ての点に於てまだまだ格差があるので、その辺の是正に研究の課題が残されている。 その点、真に福祉を理解し、対象者に対する高いサービス精神を求められるので、即ち忍の一字である。幸い本会職員は一人一人その本分に徹していることを誇りとしている。 この外に緊急を要する期間には、適当なバイト職員を採用し運営しなければならないが、期間を過ぎその内から希望がある若者については他の施設に紹介し、結構よろこばれていることも附記して置く。とにかく職員間の和を常に話し合い、施設運営の万全を期している。


対外関係とのよしみを大いに計る

 ―公園にて―52.10.26 東京都社会福祉協議会会員としての毎月行われる、更生福祉部会(本会理事長)は14年間も副部会長として協力している関係で、全社協等の役もあり、全国大会など出席する機会やら非常に広範囲に宣る交際に熱心であることは、社会福祉経営者としての都下関係団体の財団法人経営者協会会員は勿論、総ての面に於ての情報、研修、講演による研究とともに自己啓発のため、或いは常に本会ばかりでなく広く日本の福祉向上に情熱を燃やしているだけに、できるだけ顔を出すように努力している。 写真はその例であるが、先輩、好友関係は特に大切に信義を尽し、故初代部会長だった谷田実先生とは逝くなる数日前まで、遠路を週に二・三度も訪ね、色々と福祉発展のため語り合ったものだ。多くの諸先輩の指導があってこそ、また他の施設の伸びることにより、本会も自然に信頼度を深め安定されて行くことになるのではないかと信じている。 共に語り交り一日一歩確実に前進する福祉を目指し、24時間これ総て福祉の観念に全能全智をゆだねての活動を図っている。



地域の表情と寮員のひとこま

 写真(左側は何れも昭和32年~33年頃)の光景である。創立当時から、この頃までは、まだ応急援護、父子、母子等取扱い範囲が広く、一泊宿泊者が主軸だった中、そうした種別まで扱っていた時代である。 写真人物の身装りをごらんになっても判る通り、ことに子供さんの方の服装に、顔にちょっぴり戦後の名残がひそんでいるかに思われる。街全体も木造が多く、27・28年頃は土ぼこりで、雨の日などどろんこ道だったのが、ようやく舗装化された。その辺の土地は昔々の話しであろうが海底に近く、ちょっと掘ってもすぐ水が湧き、非常に土地が湿地帯で雨が降るたびゴム長が必要だった。


 <寮員と共に伊藤海岸で(旅行)> 此の街は各地方からの寄り合い人口で町が出来ている関係で、終戦間もなくは空地が多く、雑草、水溜り、蚊、どぶ鼠と云った有様で、本会創設の頃は施設としてはふさわしい環境だった。だから地域住民も人心がよく、写真のように子供さん方も毎日こうした風に朝夕、施設の周辺を遊び場にしていたものである。


 寮事務所前(右)と食堂(左)の間で職員 と寮員が何を話し合っているのやら ― すぐ往来通路をはさんで向い側に民 家が見える。



展望

 社会福祉法が制定されたのは昭和26年であり、早や31年目を迎える今日、第31回全国厚生事業会議が昭和57年10月に三重県で開催、日進月歩ではあるが、全国に於ける社会福祉施設は4万を数え、その従事者は50万人と云われている。 この内で保育所関係の施設が群を抜き2万もの大台に乗っている。 その他に類する施設が半数で、中でも民間の宿泊所関係だけの組織である全国更宿施設連絡協議会会員は年々減少し、特別人事厚生組合に加入か、或いは宿提、更生施設等に切り替え、運営を図る傾向にある。 考えてみるまでもなく、宿泊所を利用しなければならないような人口であっては、元来は少なくあってこそ、私達の目的がそれだけ達成されたことを物語ることであろう。 半面よろこばしい現況だと云うべきかも知れない。しかし現実から判断したとき、まだまだそうは安易に受け取れない問題が、寧ろ今日社会に於て、暗い影を投げている。豊饒時代の貧困とでも言うべきでしょうか、中央大学の江口教授が最近"低所得者の貧困"についての著書によって、日本学士院賞を授賞された。東西を問わず、一方で栄えれば、必ず一方では"スラム街"がある。日本では徳川時代からだと言われている如く、人間生存する限りは、 こうした現実は、時代の繁栄とともに永遠に存在するであろう。私はこの人口から溢れた少数の落ちこぼれ群衆、益々広大するであろう現代社会の失業者の中にあって、その統計にも入らない者達のために民間福祉の果たすべき役割のなお一層、存在価値が評価される所以であり、責任をもって見直さなければならない。いまこそ曲がり角に来ているのではないだろうか。時代は日夜推移する。世代は交代の流れに在る。新しい人材が要求されている。本会は逸早く率先して先ず役員幹部から、新人の優れた人材を受け入れているところである。"

<旧本会施設配置と57年現在の施設配置図>

 この配置図は昭和32年より3年に至る期間に(第一春風寮)事務所、美玉荘(アパート)、第二春風寮と建設したものであり、現在はアパート美玉荘(階下提宿利用)と第二春風寮(宿泊所)それと倉庫だけである。斜線で示しているのは昭和49年8月、更生施設を建設のための予定地で、そのために事務所、第一春風寮を取り壊してしまった。現在はなお空き地のままであり、歩みの欄も述べてあるが、時代のやがては、必ず理解の目を開くときが近い将来に来るものと信じ、じっと忍の一字でそのときまで棒するのも、福祉将来の希望を持っていたからである。(現在では不適切かと思われる表現もありますが、当時の時代背景をお伝えするために、あえて原文のまま引用しています。)

 


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