昭和25年既に財団法人厚生会として社会奉仕事業を行っていたのであるが、昭和26年社会福祉法の制定によって、ただちにそれまでの財源の一切を、昭和27年に設立発足した本会に寄付し、社会福祉法人有隣協会としてここに誕生したのである。
当初は“ポッポの家”と呼ばれたように、国鉄大宮車庫より、古い客車の箱を払い受け、そこからトラックで運んだ。まだ戦後処理も不十分だった頃だから、そんなことも可能だったのだろう。約200坪(660㎡)の借地に2面~6の配置図をご覧下さい。改造配列しただけの施設だった。深川と六郷にしかそうした珍しいものを見ることができなかった時代である。
利用料もわずか7円台で70名を収容していたものである。1泊を原則とした。男子単身者の労務者に限り受け付けていたが、救護、父子、母子弟も当時は扱っていた。しかしニコヨン時代に入り、あぶれる日が多く、寮費の納入すら滞納するものが続出し、運営には非常に苦労した時代でもあった。それに加えて建物自体が老巧化し、台風などには破損の窓から風雨に露され、雨漏りがひどく修理に難儀したものである。経営不振のため、寮長1名だけですべてを管理し、本部が神田にあった関係で、連絡があるたび神田まで出頭せねばならず、掃除、備品まで寮長の責任に於て行い、なお指導面にまで眼を光らせていなければならない二重三重の負担があった。
昭和32年頃ようやく、旧施設の取り壊しが決定し、寮員の手を借りその作業に取り掛かったが、普通の家屋とは異なった、固木と金物を使った鉄道の客車だけに手間取った。金物の思わない収穫があり、隣のくずやに運び、それが日当だった。(たしか、2、3000円だったか) 昭和32年7月28日第一春風寮(モルタル塗木造スレート葺2階建)124.32㎡が完成。
創立当初の利用料7円から10円、15円、20円と寮費の値上げがあったが、32年8月1日から第一春風寮収容開始では、周辺簡易旅館の宿銭との関連など判断し、旅館が7、80円だったので、本会では1泊50円にした。そして人員も吟味して入寮を許可することに改めたのである。(48名定員) この頃は既に寮長が役員の推戴により理事長になっていた。理事長とはなっても、寮費だけでは採算がとれず、相変わらず子使、職員と一人三役を務めなければならなかった。
早く“ポッポ家”のイメージを無くし、労務省にもその汚名から救いたい一念だったので、その後もそれをきっかけに、昭和32年12月に事務所兼管理者家屋の工事に着手、昭和33年に完成(モルタル塗木造スレート葺平屋)40.89㎡。と同じに旧家屋を改装し、食堂も建設した。引き続き、第二春風寮(モルタル塗木造スレート葺2階建)189.00㎡。これは昭和34年8月完成を見た。家族寮として開設することを目的としていたので、4.5帖1室、5帖、6帖12室、その他、洗濯場、自転車置場、集会場の設営等にも意を用い、入寮者の人心一変を図った。数より理想を実現化する為、正に24時間不眠不休の活躍であり、全力投球の毎日であった。資金の導入・返済は民有民間としては全て個人的或いは民間企業よりの融資以外方法が無かった時代であった。お風呂屋さんの建設資金が(300~800万)で返済は三ヵ年あればよかったと云われていた頃であるから、1施設(40名前後の定員)で約200万、それに寝具等をそろえるとなると50~100万の資金が要る。返済は長期にならざるを得ない。勿論その方面の融資はあったが、書類提出で許可を受けるなど時間を要するなどの点で、それも全額認められず、厳しい制限のみで、民間にとっては利用するよりも、辞退せざるを得ないか、その勢いばかりではないが、民間施設が一時は50施設を余る(東社協会員)だった時代(昭和40~50年代)から57年に於ては、救世軍と春風寮ぐらいではないだろうか。どの世界も同じ。短年月に浮沈の浮世は如何に福祉運営の至難であるかを物語っている外にならない。一応以上の次第で、ようやく一件落着かと思いきや、あのオイルショックで100万円台で通用した社会は一躍1000万円台の金融時代になってしまったことである。到底それでは最低経営の民間福祉施設では、特に第二種宿泊所では折角の前進も後退のやむなきを得ず、緊急役員会の了承を待つまでもなく、関係官庁の強力な勧めもあり、都下随一を誇った労務者オンリだった宿泊所も最後のピリオドを打たねばならない運命に至り、またまた厚生施設建設にいの一番に白羽の矢が本会に立ったので、将来の見通しばかりでなく、社会に対しても、そのように変化をするべき時代であることを認識して断行に踏み切ったのである。昭和48年からその決意をもとに、工事資金等につき、活発な運動を開始し、その甲斐あり、各関係官庁、各関係団体、個人等の強力な協力により、昭和49年8月予定地に施設建設のためブルドーザーを搬入し、第一春風寮、事務所はあっと云う一瞬の間に崩壊しさってしまった。惨劇/ただ一人立ち会った現理事長の眼には一滴の涙すら浮かばなかったという。血のにじむ福祉人生であればこそ、じっと忍の一字で耐えなければならなかった立場である。
ところが意外や、予期もしていなかった、1人でも反対者があっては、は建設中止との命令が電話で通告されたのである。各役員は離散、工事人からの催促、町民からの突き上げ、関係官庁からの注告等に一変して暗転。金と心の負担のみ残されたのである。初代理事長の春日井先生の親身なるご協力、関係者の身も惜しまない行動、説得にもかかわらず、昭和50年春日井先生(まだ都議員在職中)仲介の元で都関係幹部との話し合いで中止と決定した。建設予定地の掘穴は埋め、塀も工事人に依頼、その後についてはあまりにも語るにしては、記録にしろ、残酷そのものでこの辺で留めることにする。不屈の精神こそ福祉事業ではないだろうか、再起を図るだけだ。今日で約7年経過したが、誰にも云えない辛酸を心に秘めての奮起は、春日井先生健在である限り、有隣協会のシンボルが示すがごとく、大海を順風満帆で突走らなければならないのである。
幸い残った第二春風寮を改築し、都山対策の応急援護対策の一環として、山谷労務者の宿泊所に活用(定員32名収容) それに昭和56年度から宿提の委託を隣接のアパート美玉荘の下階のみ借用し、定員24名を収容している。更には昭和51年12月より江東区塩浜寮、定員200名を収容管理一切についての契約を更新し続け、塩浜荘廃止と同時に、これに変わる江東区潮見1-5-3に都が新造された準厚生施設潮見寮が開設する(昭和53年12月13日より) 本会が管理運営することとなり契約更新し続けている。(毎年12月より翌年3月末期間)定員176名。
同様に、大井競馬場裏と呼ばれているが、正しくは大田区東海5丁目である。ここもごく最近名称が付けられたのである。ここは山谷労務者の越冬を保護する為の臨時施設で、当初は2、300名だったのが、逐次増員され、昨年などはピーク時は650名を収容したのである。(この施設は毎年12月から翌年2月末で閉鎖)
以上2臨時施設の管理運営には小又常務が全てに亘り総監督としてあたっている。短期間に於て巨大な福祉施設の配置と指導、管理については並々ならない裁量を必要とし、実にその期間中は胃の痛みに悩まされるほどの責任である。職員も献身の努力で当り、今日まで事故もなく実績を上げていることは、自他共に高く評価されている。これらどれ一つを取り上げてみても、終わりはないのである。人間が存在する限りは、永遠に続けられるであろう。また明日に向かって、もう一歩もう一歩前進しなければならない。厚生施設中止の空き地を現在もなお眺めるたびに、新たなるファイトが凛々と湧き上がってくる。今日もまた明日も報いもなき誇りのために全力投球で頑張ろう!!
本会三十周年記念の一環としてこのパンフレット案内書を作成したのである。